
観光客が楽しげに行き交う橋の下、私はウェットスーツ姿で濁った川に立ちこんでいた。
足元の見えない泥濘みをそっと探りながら進むと、冷たい水がじわじわと胸のあたりまで迫ってくる。海水とは明らかに違う、汽水域特有の少し生臭い匂いが鼻を突いた。
橋の上からは、腕にゴリゴリのタトゥーを入れた若い外国人の女性2人が、心配そうにこちらを指差している。
正直に言えば、川の下流は決して綺麗とは言えない。それに何より、橋を行き交う人々の「あの人、海から上がってきてこんなところで何をしているんだろう」という好奇の視線がかなり恥ずかしかった。
波乗りの途中で大事なサーフボードを砂浜に置き去りにしてまで、なぜ私はこんなところで川底をさらっているのか。
事の発端は、ほんの少し前の海辺での出来事だった。
雨上がりの貸し切りの海で
雨上がりの午後。
海に向かうと、たまに上潮に乗ってやってくる波が、オフショアの風に綺麗に形を整えられていた。
最初は波打ち際で、外国人の集団が海水浴のように波と戯れていた。サーフィンをするには少し距離が近く、危ない。「うーん、海水浴のシーズンはもう終わったのになあ」と、正直少し邪魔にすら感じていた。
仕方なく彼らを避けて波を待つ。それでも全体的に波が小さかったせいか、海に入っている人は少なかった。
やがて彼らが満足して海から上がると、周囲からはほぼ人がいなくなった。
誰もいない、貸し切りのような海。
頭の中で「誰もいない海」なんて古いメロディを口ずさみながら、波の割れる場所で静かに波乗りを楽しむ。水面を銀色のイナダがピョンピョンと跳ねていく。
魚たちと一緒に泳ぎ、自然の呼吸に合わせて波に乗る。最高に気持ちのいい時間だった。
「あー、気持ちよかった」
すっかり満ち足りた気分で岸に上がった瞬間、さきほどの集団にいた若い女性2人に声をかけられたのだ。
異国の旅人に借りがある
「ヘルプミー、キャンユースピークイングリッシュ?」
私は英語がしゃべれない。それに、彼女たちの腕にはいかついタトゥーが入っている。最初は怪しい勧誘か何かかと身構えた。
身振り手振りで話を聞いてみると、どうやらすぐそこの川の橋の下で、大事なカメラのレンズキャップを落としてしまったらしい。
「あなたはウェットスーツを着ているから、海から少し川を遡って、取ってきてくれないか?」
そういうことだった。
「えー……」と、内心ためらった。助けてあげたい気持ちはあるが、わざわざ川に入っていくのは気が進まない。
だが、困り果てた彼女たちの顔を見ているうちに、ふと昔の記憶がフラッシュバックした。
中国のフホホトで、右も左も分からなかった私を親身になって案内してくれたパオくん。
インドで宿が見つからなかった時、見ず知らずの私を泊めてくれた親戚の友人のスニータさん。
カナダのトロントで、温かいベッドを貸してくれた友人の友人のメアリーおばさん。
若い頃、異国をあてどなく旅していた私は、どれほど多くの見ず知らずの人たちの善意に助けられてきただろうか。
彼らがいなければ、私の旅はもっと惨めで、心細いものになっていたはずだ。
「旅する若者は、放っておけない」
自分の中のどこかで、ストンと腑に落ちる音がした。私は「うん」と小さく頷き、海から川へと向かって歩き出した。
グレーのキャップと静かな余韻
そうして冒頭の、橋の下の場面に戻るわけである。
思ったよりも水深は深く、川底の感触は心もとない。少し不安になりながらも、彼女たちが指差す橋の下の薄暗がりへと進む。
目を凝らすと、濁った水底にグレーの丸いキャップが沈んでいるのが見えた。
「あった」
拾い上げて手渡すと、女性たちはパッと顔を輝かせた。「サンキュー!」と何度も言いながら、お礼にと小銭を差し出してきた。
私は笑って首を振り、「NO」とチッチッチと指を振って断った。
見返りが欲しくてやったわけではない。これは、私がかつて世界中で受け取ってきた善意を、鎌倉の川底で少しだけお返ししただけの「恩送り」だ。
笑顔で川を下っていく私の背中に、彼女たちが大きく手を振っているのがわかった。
少し気恥ずかしくて、でも悪くない気分だった。波に乗った後の全身を駆け巡るような爽快感とはまた違う、静かで、じんわりと温かい心地よさが胸の奥に残っていた。
イワタコーヒーでの顛末
海から上がり、道具を洗い、シャワーを浴びてすっきりとした後。
午後からは妻と長男を連れて、駅前のイワタコーヒーへと出かけた。
クラシックな店内で、いつもの分厚いホットケーキを切り分け、香りの良いコーヒーをすする。
「実は今日、海でこんなことがあってさ」
私が川に入ってレンズキャップを探した顛末を話すと、妻と長男は少し呆れながらも笑って聞いてくれた。
出来事としては、ただそれだけのことだ。
でも、あの濁った川底でグレーのキャップを見つけた瞬間の安堵感や、背中に感じた異国の旅人たちの気配は、この街で暮らす日常の、ちょっとしたスパイスになった。
今日もまた、海と山と街のあいだで、小さな物語が生まれては消えていく。
いい休日の過ごし方だったと思う。
【今日の一言】
若い時の旅の借りは、一生かけて少しずつ返していくものなのかもしれない。
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【この記事の案内帖】
日常のすぐ隣にある非日常。鎌倉という街で交差する、名もなき旅人たちとの記憶の記録です。
yoshitakeotoya.hatenablog.com

