海と山と街のあいだ|日常を旅する鎌倉暮らし

鎌倉の静けさと東京のリズム。そのあいだから見つける、暮らしの知恵

ヴェネチアの風と日本の秋が混ざり合う。茅ヶ崎から箱根へ、すべてが完璧に噛み合った誕生日ドライブ

ペスカトーレと秋茄子のパスタを平らげ、食後のプリンアイスと濃いめのコーヒーに舌鼓を打っていた時だった。

ふいに店内に、玉置浩二の「メロディー」が流れ始めた。

美味しいイタリアンレストランでの静かなランチ。空間はおしゃれで洗練されているのに、なぜか最後に流れてきたのは、このあまりにも日本的な、それでいて胸の奥をぎゅっと掴むような名曲だった。

少しの違和感は、すぐに心地よさに変わった。やはりそこは日本人だからだろうか。メロディーに合わせて、思わず小さく口ずさんでしまう自分がいる。

妻の誕生日を祝うために訪れた箱根。この日に感じた心地よさの正体は、この時のBGMのように「異国の洗練」と「日本の日常」が、絶妙なバランスで混ざり合っていたところにあるのかもしれない。

振り返れば、朝の滑り出しからすべてが完璧に噛み合っていた。

海沿いのサザンと、コーヒーの香り

秋晴れの空の下、車を走らせてまず立ち寄ったのは、茅ヶ崎の道の駅だった。

BGMはもちろんサザンオールスターズ。海沿いの道を走るには、これ以上の選曲はない。道の駅は活気に溢れていて、地元の新鮮な野菜や特産品が並んでいる。ここで見つけるコーヒー豆は安くて美味しいものが多く、密かなお気に入りになっている。

温かいコーヒーと、焼きたてのクレープを両手に抱えて車に戻る。窓の外には大磯の海が静かに広がっていた。

コーヒーの香りと、甘いクレープ。そして、きらきらと光る水面。まだ旅は始まったばかりだというのに、すでに満ち足りた気分になる。

「これって  最高じゃん」

ちいかわ風に、思わず、そんな言葉が口をついて出た。特別な準備をしたわけでも、遠く離れた海外へ飛んだわけでもない。ただ海沿いを少し走っただけで、日常の延長線上にこんなにも豊かな時間が用意されている。

ヴェネチアの風と、そびえ立つ松の木

車は山を登り、箱根ガラスの森へと到着した。

チケットは事前にWEBで購入しておいたので、入り口でのやり取りもなく、実にスマートに入館できた。こういう小さなスムーズさが、大人の休日には意外と重要だったりする。

一歩足を踏み入れると、そこはヴェネチアのような異国情緒に溢れていた。穏やかな川のせせらぎが聞こえ、美しいガラス細工がそこかしこに飾られている。

しかし、ここでもただの西洋の模倣ではない、不思議な混ざり合いがあった。

ヴェネチアを思わせる橋や建物の向こうに、立派な日本の松の木がそびえ立っているのだ。そして、秋の風に揺れるススキ。よく見ると、そのススキの穂先はすべてガラスで作られている。

本物のようにしなやかに揺れながら、太陽の光を浴びてキラキラとプリズムのように輝くガラスのススキ。イタリアのガラス芸術と、日本の秋の風景が、見事なまでに融合している。

敷地内に響く鐘の音を聞きながら、静かに幸せを祈った。現代になるにつれてデザインの表現が豊かに変わっていく美術館の展示も素晴らしかったが、何より心惹かれたのは、妻の生まれ年に作られたというアーティスティックなガラスのオブジェだった。

長い時間を経て、今ここで出会った不思議な縁。ミュージアムショップでは、しっかりとそのガラスの美しさを閉じ込めたようなブレスレットとネックレスを選び、プレゼントした。

大涌谷の煙と、湯本の誘惑

ガラスの森を後にして、車は大涌谷へ。

山肌からモクモクと立ち上がる白い煙と、かすかな硫黄の匂い。さっきまでのヴェネチアの空気から一転、地球の鼓動を直接感じるような荒々しい風景が広がる。このギャップもまた、箱根の面白さだ。

山を下り、箱根湯本へ向かう。温泉街の情緒あふれる通りを歩きながら、目当ての品を探す。

鈴廣のかまぼこは、期待通りのプルンプルンとした弾力。そして、「月のうさぎ」という可愛らしい名前の温泉まんじゅうは、もっちりとした皮と優しい甘さで、歩き回った体にじんわりと染み渡る。

美味しいものを少しずつ味わいながら歩く温泉街。こういうベタな楽しみ方も、年齢を重ねるごとに素直に喜べるようになってきた気がする。

露天風呂とスズムシ、そして蚊との戯れ

旅の締めくくりは、富士屋ホテルでの日帰り温泉だ。

三連休の熱狂が去った後の平日、しかも夕方という時間帯。狙い通りというべきか、浴場は驚くほどガラガラだった。

サウナでしっかりと汗を流し、「ワッサー」と豪快に冷水を被る。火照った体が急激に冷やされ、毛穴が引き締まる感覚。そのままフラフラと、ヒノキの露天風呂へと向かった。

そこは、完全に私一人の貸し切り状態だった。

湯船に体を沈めると、ヒノキの深い香りが鼻をくすぐる。目の前には、ライトアップされた静かな森が広がっている。そして、耳を澄ますと聞こえてくるのは、驚くほど大きなスズムシの音色だけ。

先ほどのイタリアンの店で流れた「メロディー」の余韻が、まだ頭の片隅に残っている。ヴェネチアの風景、サザンの曲、秋茄子のパスタ。完璧に噛み合った一日の記憶を反芻しながら、ぼーっとお湯に浸かっていた。

あまりにも無防備だったのだろう。ふと気づくと、何匹かの蚊が私をめがけて飛んできている。

普通なら鬱陶しく思うところだが、この時はなぜかそんな気にもならなかった。手でお湯を掬い、飛んでくる蚊に向かってパシャパシャとかけてみる。まるで、湯船の中で蚊とじゃれ合っているような、滑稽で平和な時間。

「お湯をかけられて怒ったのかな」

油断してじゃれ合っていた結果、しっかりと数箇所を刺されてしまった。かゆみを感じながらも、そんな自分に思わず笑いが込み上げてくる。

完璧な一日の中に紛れ込んだ、ちょっとした隙。それすらも愛おしく思えるほど、心にはたっぷりと余裕があった。

いつでも手が届く「最高」

すっかり暗くなった帰り道。車を走らせていると、箱根湯本から鎌倉まではたったの1時間だった。

今日、一日の中で何度「これって最高じゃん」とちいかわ風に呟いただろうか。

妻の誕生日という特別な日ではあったが、何か非日常的な大冒険をしたわけではない。ただ海を眺め、美味しいものを食べ、温泉に入っただけだ。

それでも、すべてのピースが完璧に組み合わさった時、日常のすぐ隣にこれほどまでに豊かな時間が存在していることに気づかされる。

イタリアの曲でおしゃれに締めるのではなく、玉置浩二を口ずさんでしまう自分。ヴェネチアの風を感じながらも、ヒノキの風呂で蚊に刺される自分。

そんな少しちぐはぐで、でも限りなく愛おしい日常の延長戦を、これからも大切に味わっていきたい。

帰りの車の中で、助手席で眠る妻の寝息を聞きながら、静かな納得感とともにアクセルを踏み込んだ。

【今日の一言】

完璧な調和とは、少しのノイズを笑って許せる余裕の中に生まれる。

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「せっかく」という執着を手放した休日には、どんな時間が流れ込むのか。

裏山の日陰にハンモックを吊るし、お湯を注いだばかりのカレーヌードルをすする。

ジャンクなスパイスの香りが、山の土や木々の匂いと混ざり合う。久々に外で食べるカレーヌードルは、なぜこれほどまでに美味しく感じるのだろうか。額に滲む汗を拭いながら熱いスープを飲み込んでいると、容赦なく蚊が寄ってくる。持参した蚊帳を張る手間を惜しんだわけではないが、設置している最中にも、こうして麺をすすっている間にも、数カ所を刺されてしまった。

今日は、秋の気配を探すにはまだ少し暑すぎたようだ。もう少し寒くなって、蚊がいなくなってくれれば言うことはない。山の空気は、虫たちが息を潜める冬こそがベストシーズンなのだと、痒みに耐えながら少しだけ反省する。それでも、日陰をすり抜けていく風はひんやりと冷たく、火照った身体を心地よく撫でていった。

ハンモックに身を沈め、持ってきた『反世界』のページを開く。活字を目で追っているうちに、木漏れ日の揺らぎと風の音に意識が溶け出し、いつの間にかうたた寝に落ちていた。

「せっかく来たのだから」を手放す身軽さ

実はこの日の朝、私は海にいた。

早起きしてボードを積み込み、いつものように海へ向かったのだが、期待していた波はイマイチで、おまけに人も多かった。波待ちのピークに漂う独特の混雑感と、思い通りに割れない波。以前の私なら、「せっかく早起きして海まで来たのだから」と、意地になって何本か乗れるまで粘っていたかもしれない。

しかし、今日の私は開始からきっちり1時間で海から上がることを決めた。

波が良くないなら、さっさと切り上げて山へ行けばいい。思い通りにならない自然を前にして執着を手放せるようになったのは、この街に暮らすようになってから身についた、ひとつの生存戦略かもしれない。海がだめなら山があり、山がだめならお気に入りのカフェや本屋がある。「せっかく」という元を取ろうとするような貧乏性を捨てた途端、休日のスケジュールにはゆったりとした余白が生まれる。

海辺の喧騒から逃れ、わずか数十分後には裏山の静寂の中でカレーヌードルをすすっている。この見事なまでのコントラストと、行き当たりばったりの選択を許容できる環境こそが、今の私にとって最大の贅沢なのだと思う。

言葉のない時間を共有する

午後になり、ようやく起きてきた妻と連れ立って、夕方の鎌倉駅方面へ向かった。

少し日が傾き始めた御成通りを歩く。休日の賑わいもピークを過ぎ、街全体が少しだけ息をつくような時間帯だ。ふと立ち寄ったセレクトショップの「MIKI」で、妻にカーディガンをプレゼントした。特別な記念日というわけではないが、少しずつ涼しくなっていくこれからの季節に、ちょうど良さそうだったからだ。

そのままの流れで、「ヲガタ」の扉を開ける。昨日もそうだったが、時間帯の妙なのか、今日も奇跡的に空いていた。いつもなら誰かの話し声やカップの触れ合う音で満たされている空間に、ぽっかりと静かな時間が落ちている。

私たちは、メニューにあるケーキを全種類のせたプレートを頼み、ふたりでシェアした。

美味しいコーヒーと、甘いケーキ。向かい合って座りながら、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。何か気まずいことがあるわけではない。ただ、無理に話題を探して沈黙を埋める必要が、もう今の私たちにはないのだ。

長年連れ添い、同じ屋根の下で生活を営み、息子たちの成長を見守ってきた。そんな月日を重ねるうちに、夫婦の間の「会話」は、必ずしも言葉による情報交換だけではなくなっていった。目の前のケーキの味を確かめ合い、店内に流れる静かな音楽に耳を傾け、窓の外を行き交う人の影をぼんやりと眺める。ただ、その空間と時間を共にしていることへの安心感。

「何か話さなければ」という焦りがない関係性は、信じられないほどに心地よい。無言のままコーヒーを飲み込むその静寂の中にこそ、日々の小さな幸せが濃縮されているように感じるのだ。

満ち足りた1日の着地点

お腹も心も満たされた私たちは、そのまま「タラバ書房」へと足を伸ばした。最近は毎週末のように通っている気がする。平台に並べられた新刊のタイトルを眺め、背表紙の色彩を楽しみ、いくつか気になる本を手に取っては棚へ戻す。さすがに今日は本を買わずに、冷やかすだけで家路についた。

夜は自宅のリビングで、Netflixの『ラブ上等2』を流しながら、家族で鍋をつつく。

外で食べるカレーヌードルも美味いが、夜風が涼しくなってきた今の時期、気のおけない家族とつつく熱い鍋もまた格別だ。グラスに注いだ赤ワインと、ちょっとしたおつまみ。他愛のない感想を言い合いながら画面を眺めているうちに、心地よい疲労感とアルコールが身体を包み込み、気づけば深い眠りへと落ちていた。

朝の海から始まり、裏山での微睡み、妻との静かなコーヒータイム、そして夜の鍋とワイン。

「せっかくの休日だから、何か特別なことをしなければ」という力みを手放し、目の前の状況に合わせてするりと身をかわしていく。波が悪ければ山へ行き、会話がなくてもその静けさを味わう。

執着を手放したあとにできる空白には、案外、こういった「何気ないけれど確かな手触りのある時間」が流れ込んでくるものだ。特別な事件など何も起こらない。ただ、海と山と街と家をシームレスに行き来し、感覚の赴くままに過ごした1日。

人生の後半戦に必要なのは、計画通りにタスクを消化する効率の良さではなく、思い通りにならないことを笑って受け入れ、別の楽しみにすり替えてしまう、この「しなやかな余白」なのかもしれない。

【今日の一言】

幸福とは、そこにあるものをそのまま味わう能力のことである。

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妻のプリンパフェと、僕のキャラメルワッフル。鎌倉ディモンシュで味わう「日曜日」

運ばれてきた皿を見て、妻の目がほんの少しだけ見開かれた。

目の前には、こんがりと焼き色のついた生地に、とろけるようなアイスクリームと濃厚なソースが絡み合うキャラメルワッフル。そして彼女の正面には、銀色の脚付きグラスに乗った、クラシックで端正な姿のプリンパフェ。

「……ねえ、やっぱりそっちと交換してくれない?」

悪びれる様子もなく、しかし少しだけ上目遣いで妻が言う。僕は思わず小さく吹き出しそうになったが、平静を装って「いいよ」と皿を滑らせた。予想はしていた。こういうことは、うちの夫婦の間では時々起こるのだ。

ここ、鎌倉の「カフェ・ヴィヴモン・ディモンシュ」のメニューには、写真がない。文字だけで構成された潔いメニュー表から、自分の過去の記憶や想像力を総動員して、脳内に完成形を描き出しながら注文を決める。だから時折、運ばれてきた実物を見て「あ、想像よりこっちのほうが美味しそうだった」という、隣の芝生が青く見えるケースが発生するわけだ。

若い頃なら「自分で頼んだんだから」と意地悪を言ったかもしれない。けれど、長年一緒に暮らしてくると、こういうささやかなイレギュラーも「いつものことだな」という穏やかな諦観とともに、笑って受け流せるようになる。僕の前にやってきたプリンパフェだって、固めの食感とほろ苦いカラメルが絶妙で、十分に美味しそうだったのだから。仲良くデザートをシェアしながら、僕らはそれぞれの味覚に満足していた。

三連休の奇跡と、心地よい活気

そもそも、休日のディモンシュにふらりと入れたこと自体が、ちょっとした奇跡だった。

小町通りの喧騒から少し外れた路地にあるこの店は、鎌倉を代表する名店の一つだ。週末ともなれば、店の前にはずらりと長い行列ができるのが日常風景。ましてや今日は三連休の真っ只中である。地元民としては「どうせ今日も並んでいるだろう」と半ば諦め気味に店の前を通りかかったのだが、ガラス越しに少し中を覗いてみると、なんとぽっかりと空席があったのだ。

「ラッキー」と顔を見合わせ、逃す手はないとばかりにドアを開けた。

店内に一歩足を踏み入れると、そこにはいつもと変わらない、静かで丁寧な時間が流れていた。使い込まれて角が丸くなった木のテーブル。壁にさりげなく飾られた、コーヒーやパフェの美しい写真。そして何より、店全体を深く包み込む、甘く香ばしいコーヒー豆の焙煎の匂い。

人気店ゆえに席は埋まっており、店員とお客の話し声が重なり合って活気がある。しかし、決してうるさくはない。見事なまでに空間と調和したブラジル音楽が、すべての雑音を心地よいBGMへと変換してくれているからだ。ボサノヴァの軽快なギターの音色と、ポルトガル語の柔らかな響きが、休日の朝の空気をゆったりと引き伸ばしていく。

鎌倉という街の「おしゃれ」の正体

マスターが丁寧にハンドドリップで淹れてくれた、エチオピア豆のオリジナルブレンドを一口含む。華やかな香りと、すっきりとしながらも輪郭のはっきりした酸味が、喉の奥へと滑り落ちていく。妻はあっさりとしたアメリカンを飲みながら、奪い取ったキャラメルワッフルを嬉しそうに切り分けている。

ディモンシュの空間に身を置くたびに思う。ここには、僕が感じる「鎌倉のおしゃれ感」が、最も純度の高い形で詰まっている、と。

それは、最新のトレンドを追いかけたり、見栄えだけを派手に飾り立てたりすることではない。自分たちの愛するもの、信じるものを、ただひたすらに、静かに研ぎ澄ませていく姿勢のことだ。

こだわりの自家焙煎コーヒーはもちろん、店内に並ぶオリジナルのTシャツや、セレクトされたコーヒーグッズ、そして音楽。そのすべてに、マスターのブレない美意識と偏愛が貫かれている。誰かに媚びるのではなく、自分たちが一番心地よいと思うカルチャーを、この鎌倉という街で何十年も発信し続けている。

その静かな熱量とブレなさが、結果として多くの人を惹きつけ、時代を超えて愛される空間を作り上げている。流行り廃りの激しい時代にあって、変わらないことの強さを教えてくれる場所なのだ。

我が家にある、もうひとつの「日曜日」

満ち足りた気分で店を後にし、いつもの海風を感じながら家路につく。

帰宅して真っ先に向かうのは、リビングの定位置だ。少しひんやりとしたファブリックの感触を確かめながら、我が家のソファーに深く腰を下ろす。

実は、我が家のリビングにあるこのソファーのプロダクト名も「ディモンシュ」という。

数年前、コロナ禍で世界中が閉塞感に包まれていた頃。支給された特別定額給付金を全額つぎ込み、「せめて家の中の時間だけは、最高に快適なものにしよう」と妻と相談して迎え入れた家具だ。しっかりとした木のフレームに、沈み込みすぎないクッション。僕の読書定位置であり、時にはうたた寝のベッドにもなる。

カフェの名前とソファーの名前が同じなのは、たぶん偶然の符合だろう。ディモンシュ(dimanche)とは、フランス語で「日曜日」を意味する。

カフェ・ヴィヴモン・ディモンシュ。直訳すれば「日曜日万歳!」。
そして、我が家のディモンシュ・ソファー。

www.idee-online.com

「やっぱ休日っていいよね」

背もたれに体重をすっかり預け、天井を仰ぎ見ながら、ふとそんな言葉が口をついて出た。妻は隣で「そうね」と短く返し、買ってきたばかりの雑誌のページをめくっている。

完璧ではない日常を味わう

若い頃は、休日といえば何か特別なことをしなければならないような気がしていた。どこか遠くへ出かけたり、新しい刺激を求めたり。

けれど、人生の後半戦に差し掛かると、こういう「何気ないピース」がパチリとハマる日の尊さが、沁みるようにわかってくる。

偶然空いていたお気に入りのカフェ。妻との他愛のないデザートの交換。見事に調和したブラジル音楽と、エチオピア豆の香り。そして家に帰り、お気に入りの「日曜日」という名のソファーで足を伸ばす時間。

メニューに写真がないからこそ起こるちょっとした勘違いのように、日常は決して完璧ではないし、予定調和にも進まない。けれど、その思い通りにならない余白の部分にこそ、面白さや味わいが隠れているのだと思う。

エチオピアの果実のような残り香を口の中に微かに感じながら、静かに更けていく鎌倉の午後。まあ、今日もなかなか悪くない一日だった。

【今日の一言】

Vivement dimanche!(日曜日が待ち遠しい!)
―― フランソワ・トリュフォー監督の映画タイトルより

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効率や速度から降りて、一杯のコーヒーや古い映画、休日の余白をじっくりと咀嚼するための記録。
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